移動の進化を振り返る2~人に速度を与えた馬での移動編

移動の進化を振り返る2~人に速度を与えた馬での移動編

自動車のエンジン出力を表す「PS」という単位が、ドイツ語で「馬の力」という意味を持つことからもわかる通り、馬は徒歩が主たる移動手段であった人類に、大きな進化をもたらした存在です。馬との出会いによって人類は広範囲を速く移動したり、重い荷物を大量に輸送したりできるようになりました。では、いつから人は馬を移動・輸送手段として活用を始めたのでしょうか…?

馬の誕生と進化~馬の祖先は森の小動物だった!?〜

馬が地球上に姿を見せたのは約5,500万年前のこと。前足に4本、後ろ足に3本の指を持ち、体高30cmほどのエオヒップスという小動物が起源とされています。

始まりの馬という意味を込めて、「曙馬(アケボノウマ)」とも呼ばれるこの動物は、森林に住み、木の葉や木の実を食べていたそうですが、氷河期に対応すべく草原地帯に活動の場を移すと草を食べ始め、同時に速く走れるように進化していきます。その後、肉食獣から逃れるために身に付けた速く走る能力は、指の減少と爪の硬化や体格の大型化で磨きがかかり、約350万年前の地層からは体高1m超・各足に1つの大きな「蹄」を持つ、「プリオイップス」の化石が発見されています。

現在の馬とほぼ同じ大きさ・スタイルに進化した「エクウス」が登場するのは、人類史で言う旧石器時代初期に当たる約100万年前で、長距離を速く移動できる能力を有していたエクウスは世界中に生息地を広げ、シマウマやロバなどの祖先になりました。

人類と馬との出会い~後期旧石器時代の遺跡で明らかになったこと~

人間が馬と遭遇した有名な証拠は2つあります。1つ目は30万年前のドイツ・シェーニンゲン遺跡であり、湿地に馬を追い込んで動けなくさせ、木槍で突き殺した跡が見つかっています。2つ目はもっと新しく、フランスで発見された約2万年前のものとされる「ソリュートス遺跡」。こちらからは10万頭を超える馬の骨が発掘されており、この地では馬の群れを崖上から追い落とし肉を得る、集団による大量狩猟法が確立していたとされています。

さらに、世界的に有名な「ラスコーの洞窟壁画」にも、馬を狩猟する姿が描かれていますが、この絵から分かる通り、当時の人類にとって馬は移動や運搬の原動力ではなく、肉や皮を得るための「狩猟対象」でしかなかったのです。

家畜化と乗用の開始~なぜ馬が重用されたのか~

馬が家畜化されるは、他の野生動物同様、新石器時代に入ってからのこと。約5,500年前ごろ中央アジアで家畜化が始まり、初期は食肉用(牡馬)、乳用(牝馬)として飼育されていたようです。

しかし、次第に馬が持つ優れた身体能力と、従順で御しやすい温厚な性格に目をつけた人類は、牡馬・牝馬ともに荷物を牽引する「馬車」として用いるようになります。そう、数十万年に渡り人類にとって「食糧確保」の対象でしかなかった馬は、この時代に入ってようやく、移動や運搬の「原動力」として価値を見出され、一部地域では馬肉を食べる行為すらタブーとする文化も出始めるのです。

その後、車輪の発達によって馬は武器として利用されるようになり、紀元前1,500年前後にはヨーロッパ・中東で戦闘用馬車「チャリオット」が登場、長く古代戦の主力を担いました。とはいえ、チャリオットで戦っていたのは、王族や貴族などの一部支配者層にすぎず、維持コストの高さや地形による制約などの理由から、次第にチャリオットは姿を消していきます。

変わって台頭したのは鞍や鐙を装着し、直接馬に乗って戦場を駆け巡る「軽騎兵」であり、第一次世界大戦中に近代戦車・タンクが登場するまで、軽騎兵は戦場の花形であり続けたのです。しかし、この頃の日常生活に目を移すと、富裕層が移動用や陸上輸送の要として馬車を活用していたようですが、一般の民衆は相変わらず徒歩と人力輸送がほとんどであり、貴重な存在である馬とは従者、または飼育員としてしか接する機会がありませんでした。

加えて、馬は反芻動物ではないうえ、非常に新陳代謝が高い低燃費の動物であるため、乗用・輸送用・農耕用としては不向き。そのため高度な技術が必要な乗馬用としては利用されませんでした。しかしそこで、機動力に優れた乗馬の文化を生み出し、ヨーロッパや中東に先駆け運用していたのは中央アジアの遊牧民、つまり日本人の源流ともいわれるモンゴル民族です。

鐙や鞍、そして馬に乗るうえで最大の発明とされているハミなど、馬具一式を生み出したのは中央アジアの遊牧民であり、約4,500年前のものとされるカザフスタン・ボタイ遺跡で発掘された馬歯には、すでにハミが装着されていた跡が確認されていたのだとか。

人類による馬の家畜化が始まった時期を考慮すると、同地の民は当時文明的に進んでいた他の地域よりかなり早い段階で馬に乗って草原で狩猟したり、ヒツジや牛など他の家畜を引き連れたりして、ユーラシア大陸を大移動していたことになります。

ではなぜ、中央アジアの民は他の陸上動物ではなく馬を移動手段にしたのか、それは馬が速く走れることと、調教しやすい性格であったことのほかに、2つの大きな理由があったからです。

理由1「中央アジアの地域性と民の暮らし」

当時、文明の中心地だったヨーロッパや中東、中国・黄河流域は、いずれも馬産地の中央アジアから馬を輸入し、発明した「車」を牽引させて軍用・陸上輸送を担わせていました。しかし、前述したとおり、馬は支配者や富裕層の所有物でしかなかったのです。

そして、都市国家間の争いが続いた同地方では、軍事利用されたことによる頭数減少や多くの馬を飼育する場所とエサの確保が困難などの諸事情から、馬を大量繁殖するという文化が根付きませんでした。

一方、中央アジアには元々野生馬がたくさん存在し、養っていけるだけの広大な草原が広がっていたため、長い年月をかけてこの土地で馬はどんどん頭数を増やしていったのです。

さらに、当時の中央アジアは部族間の小競り合いこそあったものの、基本的に平和だったため、軍事利用することなく移動手段としての利用が広まった結果、乗馬を可能にする馬具の誕生につながったのです。

エサとなる牧草を大量に確保・貯蔵できる地域性、そして平穏な遊牧民たちの暮らしという要素が相まって、中央アジアは「乗馬文化発祥の地」になり得たわけです。

理由2「他の動物にはない身体的特徴」

人間は歴史上、馬にしか乗らなかったのでしょうか?実はそうではありません。中国やインドでは象、中東ではラクダ、東南アジアの湿地帯では水牛を乗用していたほか、アフリカではダチョウに乗っていた時期もあるのだとか。

今でも、象やダチョウは観光客用に、水牛は農耕用で活躍し、長期間水なしで生きることができるラクダは砂漠地帯での移動・運搬手段として利用されていますが、馬のようにあらゆる地域で乗り続けられている動物は存在しません。

象はサイズ的に大きすぎ、ラクダは繁殖が難しいうえスピードが遅く、ダチョウに至ってはそもそも乗りづらいからです。一方、馬の背中は安定して乗りやすく、肉食動物より強靭かつまっすぐな背骨を有します。さらに高速で走ってもほとんど動かないため、乗った人間がバランスを取りやすいのです。乗馬時には鞍を装着することになりますが、馬は呼吸をする際ほぼ胸部が膨らまないため、腹帯をシッカリと締めれば鞍を固定することができるのです。

加えて、騎手が馬を操るために必要なハミも、馬には前歯と奥歯の間に「歯槽間縁(しそうかんえん)」という歯の生えていない部分があるので、すっぽりと装着することが可能です。この、馬が生まれつき持ち合わせている身体的特徴と、遊牧民が知恵を絞って開発した馬具の登場により、乗馬という文化が爆発的に世界中へ伝播していきました。

歴史とともに見る日本人と馬との関係性

その1~弥生時代末期から大化の改新~

中央アジアの遊牧民たちが、早い段階で馬を主要な移動手段としていたのと異なり、日本人と馬との関係性は、世界に類を見ないほど特殊でした。

日本に馬が渡来したのは、古くとも弥生時代末期(紀元300年頃)、モンゴルから朝鮮半島を経て、贈答品としてやってきたのがはじめだと言われています。4~5世紀には乗馬の風習も伝わったようで、古墳時代の遺跡からは馬具を装着した馬の埴輪も出土していますが、当時馬を所有し乗っていたのは一族の首長など、限られた立場のものだけでした。軍事利用が主であった点は海外とそれほど変わりませんが、日本における馬は戦闘力としてではなく、国力や主張の権威を示す「飾り」にすぎませんでした。

また、馬は亡くなった者の魂を浄土へいざなう動物とも考えられており、儀礼・祭事用と考える習慣が長く続いています。お盆に馬や牛を模したなすやきゅうりなどを霊前に備えるのは、その名残であるとの説も。

日本人と馬との関係が変化し始めるのは、駅馬・伝馬制度が整備された大化の改新以降です。この制度は、人員や物資を運搬する移動インフラではなく、馬が有する優れたスピードを活かした通信システムです。システムを維持するため、8世紀初頭からは国営牧場である官牧や、国衙(律令制下で諸国に置かれた役所)が管轄する国牧も設置され、じわじわ頭数が増加。地方反乱時には軍馬として利用されていたようですが、まだ庶民が乗馬する水準ではありませんでした。

その2~武士階級の成立以降~

日本において、馬の立場が特殊になったのは、武家階級の誕生と彼らが長期にわたり政権を担った事に尽きます。

武士とは元来、平安時代の貴族らが所有する荘園を防衛するため生まれた戦闘を生業とする職能集団を言いますが、平家の台頭と滅亡を経て政権を握った源氏を始めとする武士たちは、帯刀とともに乗馬を特権階級を示すシンボルとして位置づけます。

その結果、同時代に複数人員を運搬する駅馬車が往来していたヨーロッパや、乗馬の機動力と攻撃力によって瞬く間に白人に征服された中南米と異なり、日本における馬の立ち位置は、戦闘では弥生時代と同じ「飾り」、日常利用は通信手段でしかなかったのです。

ここで、「ちょっと待って!最強と謳われた武田の騎馬隊はどうなるの?」というツッコミが入りそうですが、その通り、戦国時代を題材にした映像作品では多数の騎馬隊が相手に突撃する様が描かれています。しかし近年の研究によると、確かに数百・数千規模の騎馬隊が編成され、武士は合戦場まで騎乗で移動していたようですが、いざ決戦となると一部の将を除く大多数は下馬し、槍を手に「徒歩」で突撃していたのです。

戦場を乗馬のまま駆け巡っていたのは、乗馬技術に長けたものから選抜される伝令部隊、「母衣衆」だけで、馬は合戦場までの移動と、敗戦時に将らがいち早く逃れるための移動に利用されていただけでした。

移動方法に限らず、多くの文化や生活習慣は残念ながら戦争という、悲惨な出来事を機に発展・進化していきますが、戦場が極端に狭い日本においては馬は到底主力と呼べるものではなく、同時に海外で流行した戦闘用馬車も存在しませんでした。そして、馬車の製作技術が伝来してからも、川が多く街道の勾配が激しい日本では馬による陸上輸送ではなく、船による水上輸送の方が重宝されたのです。

その3~江戸・明治から自動車の普及まで~

江戸時代に入り太平の世が訪れると、戦国時代のような大規模戦闘はなくなり、役目を失った馬は徐々に庶民たちの重要な輸送手段になってきます。とはいえ馬車はあまり発展せず、荷物を背中に積んだ状態で人が手綱を用い先導する「駄載獣としての使役がほとんどでした。武士でさえ乗馬の機会が激減し、さらには飛脚による通信が普及したことで、馬は荷物を運ぶだけの存在になります。

また、新田開発が進められた江戸時代は、開拓地帯が湿地帯だったため馬耕は発展しませんでしたが、明治期になると乾田馬耕(明治農法)が発達し、昭和初期までほとんど馬の用途は農耕になっていきます。

1932年の史料によると、この頃全国で飼養されていた馬の総数は154万頭、うち70%超に当たる約113万頭が農耕用で、残る30万頭程度が「馬車用」だったそうですが、そのほとんどは馬力と称される荷物輸送での利用。結局、日本では一度も庶民の足替わりとして利用されないまま、1950年代に訪れたモータリゼーションの普及により、農耕利用は耕運機から馬力輸送はトラックから、役目を奪われることになるのです。

まとめ

軍事利用に伴って馬車文化が早くから定着した地域や、手足のごとく馬を乗りこなした遊牧民とは異なり、日本における馬は権力者たちの力を示す象徴であり、近代に入っても移動手段というより荷物の運搬や農耕などを担う、使役動物という側面が強いと言えます。

しかし、馬車文化が長く残った海外より自動車の普及が早く進み、日本が世界有数の自動車大国になった背景には、馬が移動手段として定着しなかったことも大きな要因の1つです。また、全国各地で行われる神事・祭事で、馬に乗った神職や鎧・兜を身に付けた武士がよく登場するのは、日本人が馬を神聖で貴重な存在と考えてきた証であり、馬を用いた国際的スポーツの競馬が盛んなことも、皮肉な事実と言えるでしょう。

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