産業革命の申し子「鉄道」の誕生と世界への爆発的普及
黎明期の鉄道動力である「蒸気機関」は、1769年に英国のエンジニア・ジェームス・ワットが発明したものが原型ですが、当時他の技術者が発明した蒸気機関のボイラー爆発事故が発生していたため、特許を取得していたワットは極端な高圧化に懸念を示していました。そのため、中小規模の工場機械の定置動力としてしか採用されませんでしたが、1800年に同特許が失効すると情勢が変わり、2年後にはリチャード・トレビシックが高圧蒸気機関の開発に成功します。
そして1804年2月、トレビシックの蒸気機関を搭載した世界初の蒸気機関車が、10トンの鉄と5両の客車、それに乗った70人の乗客を4時間かけ、約14km運搬することに成功したのです。その時速はわずか3,5km、ゆっくり徒歩移動するのと大差ないノロノロとした運転ですが、高圧化によって用途が格段に広がった蒸気機関は改良が繰り返され、1830年代には蒸気機関車と走る鉄製レールという組み合わせが確立、文字通り産業革命の原動力となりました。
また、1840年代にスクリュー・プロペラが登場すると全盛期だった大型帆船は駆逐され日本にも来航した「プロペラ式蒸気船」が、外洋交通・物流手段の主役に躍り出ます。なお、蒸気機関の燃料である石炭がもてはやされ始めたのもこの頃からで、鉱山が自国領土内に存在するもしくは、植民地で発掘・輸送可能な国は繁栄を約束されていたため、黒いダイヤと称された石炭鉱山の利権を巡る争いが各所で勃発しました。
文明開化の象徴「明治5年日本に蒸気機関車が登場」
日本では、1854年に開国を求めるため来航したマシュー・ペリーが、幕府役人に模型蒸気機関車の走行を実演して見せたり、各般の有識者が海外の文献を頼りに小型蒸気機関車のひな型を制作したりしたという記録がありますが、実物が登場するのはもう少し後のこと。
明治維新の余韻冷めやらぬ明治5年、イギリス人技術者エドモンド・モレルを開発主任に雇用し、その指導下で大隈重信や伊藤博文らを中心に日本初の蒸気機関車が完成し、新橋駅〜横浜駅間で開通しました。
ただ、鉄道の輸送力を決定付けるレール幅は世界基準より約37cm短く設定され、これが当時イギリスの植民地だった南アフリカやニュージーランドの鉄道と同じだったため、同国が「日本を格下に見て導入した」という説もありますがそれは誤解です。たしかに、イギリスや米国で導入されている広いレール幅は日本の鉄道よりスピードを出すことができますが、敷設スペースが広くカーブも大きく取らなければなりませんし、何より建設コストが跳ね上がるため、当時の国内情勢では妥当な選択だったのです。
ちなみに、日本での鉄道開通では米国が資金を出して主導するという約束が幕府との間で取り交わされていたものの、米国に日本植民地化の野心があると判断した明治政府は交渉を重ね、その約束を反故にすることに成功します。そして、すでに広大な植民地を有し資源に乏しい日本への領地的野心が薄いイギリスに白羽の矢を立て、技術提供と100万ポンドの資金を借り受けました。その代わりとして、わが国初の国債をロンドンの証券取引所で発行し、毎年膨大な利子を付けて返済することにしたのです。
日本へ技術資金を提供し鉄道を敷設・経営権を握ることで影響力を高め、最終的に植民地化を狙っていた米国は“はしごを外された”状態になったため抵抗しそうですが、当時同国は南北戦争がやっと集結したばかりで政治が安定しておらず経済も火の車。「日本に鉄道を…」なんて言っている余裕はなく、英国と争わずあっさり引き下がったと考えられています。
大規模私鉄の誕生と日清・日露戦争への貢献
明治5年に開業した日本初の鉄道は儲かったのかと言えば、翌年の営業状況は乗客が1日平均4,300人で、年間の旅客収入42万円と貨物収入2万円、そこから直接経費の23万円を引くと「21万円」の利益が出たと言います。なんだ、たったそれだけと思うかもしれませんが、現在の物価指数は当時の約4,800倍に相当しますので、単純計算しても約10億円の利益が出たことになります。そこで瞬く間に「鉄道は儲かる」というイメージが経済界に広がりました。
事実その後鉄道は延伸され続け、明治10年には日本初の鉄道トンネルとトラス式鉄橋を備えた鉄道が「大阪~京都間」で開通し、北海道ではアメリカ人技師の指導で「小樽~札幌間」で営業を開始するなど、官主導で全国へ普及していくかに見えました。しかし、西郷隆盛による西南戦争の影響で財政難に陥った明治政府は、一部を除き新規路線の建設をストップしてしまうのです。
このままでは、全国への鉄道普及が進まないことを危惧した伊藤博文は、岩倉具視らと協力して民間資本の参入を模索します。鉄道は儲かることをよく理解していた財界は渡りに船とばかりに便乗し、明治14年半官半民ながら日本初の私鉄「日本鉄道」が発足しました。
その後、全国各地に「北海道炭礦鉄道・関西鉄道・山陽鉄道・九州鉄道」といった私鉄がぞくぞくと誕生し、明治末期にはほぼ全国への鉄道敷設が完了、重要な国民の移動手段に成長したほか、日清・日露戦争時には人員・軍事物資など輸送に鉄道が威力を発揮しました。
しかし、この軍事的有用性があだとなり、徐々に力を持ち始めた軍部は鉄道網の国有化を強く訴えたことで明治39年、ついに「鉄道国有法」が成立し、前述した4社と日本鉄道を含む大手私鉄17社がすべて国有化されることとなったのです。
鉄道国有化以降は盛んだった新規私鉄の敷設がめっきり減少しますが、全国的な一括管理によって各地方の利用状況に応じた運用が可能になったほか、「東京~下関(山口県)間」といった長距離列車を設定することもできるようになります。また、現在世界有数の正確性を誇る「運行ダイヤ」といった規格の標準化、海外資本に頼りきりだった車両やレールの国産化が進んだのもこの頃からで、明治44年に完成した国産初の蒸気機関車を皮切りに、大正中期にはいわゆる「SL」が主力を担いました。
一方、当時の政府が国家予算の多くを割いて整備・改良したのは基幹路線に限られていたため、地方では鉄道インフラの整備が大幅に遅れる弊害が発生します。要するに明治政府は国有化に伴う買収と維持・管理で資金が枯渇し、地方にまで手が回らなくなったのです。
そこで政府は、車体・レール・設備が簡易なものでも良いなど、参入条件を大幅に緩和しつつ、開業から5年間は5%の収益を政府が補償することを定めた、「軽便鉄道補助法」を公布する一手を打ちます。
その効果は抜群で、参入ハードルが高くコストもかかる鉄道事業へ二の足を踏んでいた地方資本がすぐに反応し、しばらくの間日本中で軽便鉄道の敷設ブームが巻き起こり、路線バスが登場するまで地方交通インフラの中核を担うことになるのです。
蒸気機関から電気へ…民営化と交通ネットワークとしての発展
大量の人と物資を長距離で輸送するのに適していた蒸気機関車ですが、常に激しい噴煙と火の粉を周辺にまき散らしながら走行するため、開業当初から建物が密集する都市部への乗り入れに反対する声も多く出ていました。その点、電気を動力とする汽車(以下電車と表記)は、環境への被害も少なく短編成の運用も容易であるため、明治末期から大正にかけ都市部に敷設された鉄道では初めから電車を採用するなど、蒸気機関から電化する事例が多数みられるようになります。
とくに、地方の簡便鉄道での電車採用は顕著で、現在「○○電鉄」という社名で営業している私鉄やローカル線はこの流れで誕生したものですし、山手線や東京メトロなどが都民の足として定着したのも、蒸気機関から電気への移行ありきと言えるでしょう。
以降、都市交通は私鉄電車が主力となり、長距離移動と物資輸送は大型蒸気機関車を大量保有する「国有鉄道(以下国鉄と表記)」スタイルが長く続き、共に黄金期を迎えることになりますが、第二次世界大戦が勃発すると状況が一変します。
戦局が悪化するにつれ、戦時体制に組み込まれ軍部の支配下にあった鉄道施設への空襲は激しさを増し、完全に破壊される所も出るなど日本の鉄道網は甚大な被害を受けながら、終戦を迎えることになります。
ですが、当時の鉄道マンの復旧への思いは強く、なんと終戦日当日も一部の国鉄路線は平常運行していたとか。進駐軍は日本の鉄道が運行不能であると考え、大量の列車を持ち込む予定でしたが、通常通りに運行している姿を見て中止したといわれています。
その後、高度成長期に入り石炭から石油へのエネルギー革命を経て、蒸気機関車は内燃機関を有するディーゼル車や高性能化した電車にとって変わり、姿を消していきます。そして昭和39年の東海道線開通に始まる新幹線の路線拡充によって、人の長距離移動時間は大幅に短縮されました。
ただ、この新幹線の路線拡充に伴い膨大な投資と、昭和50年頃から始まったモータリゼーションの発展により、貨物輸送に占める鉄道の比率が著しく低下したことで国鉄は一気に赤字が拡大。政府も国鉄運営の再建に尽力しましたが、もはや立ち直るには分割と民政化しかないと判断され、ついに昭和62年4月国鉄は分割民営化され、現在の「JR」として再出発を切ったのです。
まとめ
自動車の普及はまだ先の話となりますが、電車の無人自動運転はすでに採用されていますし、2027年には東京・品川と名古屋市を最速40分で結ぶ夢の超特急、リニア中央新幹線の開業が予定されています。
一方、採算の取れない地方私鉄が廃業を余儀なくされたり、交通インフラの多様化と分散によって、以前ほど新幹線や特急も込み合わなくなったりしてきましたが、今後も鉄道は形を変え、絶えず進化しながら、長年にわたり国内交通の中核を担い続けていくでしょう。